第134回 シガーの過ち
厚い扉を開けて暗い店内に足を踏み入れると、
奥に僅かばかりの明かりに照らされたバーカウンターがみえる。
「いらっしゃいませ」
いつものようにバーテンダーが静かに声をかけた。
コートを預けて端の席に座り、ウイスキーを頼む。
正面の酒棚に並ぶ無数のボトルがきらきらと輝いている。
他には一人の女性客と二人連れの男性が静かにグラスを傾けていた。
腕時計を外して静かに息を吐き出すと、和らいだ空気が体に満ちた。
「お仕事帰りで?」
「うん、まあね」
グラスを手に取るとスプリングバンクの爽快な香りが立ちのぼる。
口に含むと琥珀の液体の甘くエレガントな味わいが粘膜に沁みていった。
エヴァンスが奏でるシンプルなピアノが静かに流れる。
日常から離れて過ごす穏やかでリラックスした時間。
他の客がひけると、シガーを頼んだ。
バーテンダーはパンチパンチパンチを取り出し、
慣れた仕草で吸い口をカットしマッチで火をつけて渡してくれた。
ゆっくりとふかしながら吐き出した煙と香りを愉しむ。
ところが。
何度かふかした頃からだんだん怪しくなってきた。
気持ち悪い…
どうやらヤニが回ったようだ。
「ちょっとトイレを」
クラクラしながらたどり着くと、便座を抱え込んだ。
ふだんタバコも吸わないが、格好つけて初めてシガーを吸ってみたのが大失敗。
大人の男を演じてみたかったのだが…
なんでもやってみるのが信条だが、失敗から学ぶことは多い。
もうシガーは吸うまい。
心配されながら外に出ると、冷たい風が吹き抜けていった。
たけうちこどもクリニック
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by takeuchi-cl
| 2016-01-25 09:00